応募作35

「サトオカさんは後ろを歩く」

玉川 数

 建築会社に勤めていた折、大阪の現場に二年出向いた時の話だ。会社の用意してくれた社宅は、かなりきつい勾配の坂の上にあった。大家は坂の下に住む面倒見のいい七十代の『おばちゃん』で、彼女はたいそう健脚だった。休日に、坂道で姿を見かけ、挨拶に声をかけようとするものの、差が縮まらない。やっとのことで追いつくと、ちょうど届け物にいくところだと息も切らせず笑った。すごいですねえと褒めると、これはサトオカさんのおかげだという。十年位前には、お医者に、運動しないとすぐ死ぬ言われていたんやで?
 歩けと医者は言う。死ぬ言われたらしゃあないと、茶飲み友達誘って時間を決めて歩くことにしたが、みんなおやつを持ち寄り、食べながらだらだら歩く。一週間続けたらむしろ太った。あかんと思って早朝まだ暗いうちに一人で坂を往復することにした。歩くうちにふと後ろからズック靴のぺたぺたいう音を聞く。不審に思って振り返っても誰もいない。それは毎日聞こえてきて、毎日誰もいない。サトオカさんやと思った。おばちゃんええ女やん? サトオカさん、朝の暗いときだけで、昼間は出ない。その話を友人にしたら、べとべとさんやないの? と言われた。変な名前をつけると思ったが、べとべとさんなら先にお行きというと消えるのだという。ほかになにすんの? なにもせえへん。ならいいわ。サトオカさんが追い抜かせんよう頑張ろと思った。ひとりだと飽きるけどライバルいるとええやん? それで二年ぐらいそうしてたら、お医者に褒められた。悪い数字消えてるで? 生活改善頑張ったなあ。このままいけばよう死なん。
 今はサトオカさんはたまにしか出てこないが、未明の坂の往復は続けている。
 ところでなんでサトオカさんなんです? ええ女をつけまわすサトオカさんていうのがおるやん。それはストーカーではないかと考えたが、サトオカさんはストーカーではないだろう。いい話ですねえと頷いた。