応募作173

「あめざいく」

春南 灯

 

朋子が、大阪で一人暮らしを始めて間もない頃に体験した話。
昭和三十年に建てられた古アパートは、隣室の生活音がよく聞こえる。おかげで孤独を感じることはないが、難点がひとつ。夜な夜な、隣人の大胆な嬌声が聞こえてくるのだ。
ーーあぁ、今日も始まった。
古びたドアノブを捻り外へ出る。月明かりに誘われ、あてもなく歩いていると誇らしげに花を咲かせた桜並木が現れた。
あまりの美しさに感嘆の声が漏れる。
佇んでいると、どこからともなく祭囃子が聞こえてきた。目を凝らすと、ぼんやり照らされた鳥居、参道の両脇に並ぶ露店、行き交う沢山の人が見える。
なんとなく灯を目指し、暗褐色の鳥居をくぐった。
肩がぶつかるほどの賑わいに驚いていると、少し先の露店に並べられた飴細工が目に留まった。
人をかきわけ、店先に辿り着く。
職人と思しき紺色の作務衣を着た爺が、温かい飴を操って何かを生み出そうとしている。棒に刺された塊は鳥の素になり、素早く鋏が入れられ、羽を得ると目前に羽ばたいてきた。
「やるよ」
爺は、きょとんとしている朋子に飴の棒を握らせると、道具を片付け始めた。
手元を見ると、繊細な飴細工の鶴が羽を広げている。
「今、手持ちがないので、ちょっと待っていてください!」
朋子は、踵を返し家へと走った。
随分歩いたような気がしていたが、僅か五分ほどの距離。
自室のドアを開け、台所のコップに鶴を挿すと、財布片手に桜並木を目指した。
だが、走れども走れども、目印の桜が無い。
見落としたのかと何度も往来したが、とうとう桜を見付けることはできなかった。肩を落とし部屋へ戻ると、台所の蛍光灯の下で、虹色に輝く鶴が羽を広げていた。

翌朝、近所の交番を訪ね、神社の場所を訊いたが、周辺に神社はおろか桜並木も無いと言われた。
そこに住んでいた四年の間、暇さえあれば辺りを探し歩いたが、ついに見付ける事はできなかったそうだ。