個人賞:山下昇平賞

作品タイトル:「蒲公英
筆名:和口 比沙子

 上町筋の大手前交差点に押しボタン式の横断歩道がある。三年前の冬、まだ薄明るい早朝に、私は一人でそこに立っていた。二十近く年の離れた妻子持ちの男と外泊し、朝帰りの途中だった。男は北海道から強引に会いに来ておいて、突然帰ると言い出し、ホテルからタクシーで関空へ戻ったのだ。
 不機嫌だった。断ち切るために北海道から転居したが、大阪を選んだのは男が若い頃住んだ町と聞いていたからで、そんな自分が情けなかった。苛々しながら信号が青に変わるのを待っていると、対岸の大阪城の堀側に、同世代の女が立った。
 こんな時間にこんな所に一人で立っている女の姿を遠目に見てやるせなさが募る。やはり別れるべきかと考えつつ、信号が青に変わらないことに、つまり自分が押しボタンを押し忘れていたことに気づいた。錆びたボックスのボタンを押すと、間もなく信号は青に変わり、私も対岸の女も歩き出した。
 あの女もボタンを押すのを忘れるほど疲れているのだと、憐れな同類の顔を確認するように、すれ違いざまに女の顔をちらと見た。女もこちらをちらと見た。
 女の両目には、蒲公英の花が一輪ずつ嵌まっていた。その黄色い両眼と目が合った瞬間、女は海の中を進むように、足元からアスファルトの中に沈んでいった。誰もいない横断歩道だけが残った。
 前も後ろも見ることができず、ひたすら下だけを見て走り続けた気がする。走りながら路面から蒲公英が顔を出しているのを何度も見た。恐怖と同時に、この寒いのにもう咲くのかと関心している自分もいた。
 その日に電話番号を変え、男との連絡を一切絶った。それで良かったと思っている。