応募作118

「看板に偽りあり」

大庭くだもの

 

 立て看板には〈のっぺらぼう〉とある。わたしはマレーグマを見たかったのだが。
 小糠雨がしとしとと降る動物園は人影もまばらだった。檻のまわりにはわたし以外、新世界からながれてきたらしき酔っ払いがひとり、四阿のベンチでうなだれているだけだ。
 檻のなかには毛むくじゃらの背があった。熊か大型の猿のまるまった背中に似ている。岩陰に隠れて、正面はうかがえない。眠っているのか、ふかい呼吸のたびに光沢のある毛がしずかに動く。缶コーヒーを飲みほすあいだもこちらをふりむくことはなかった。
 やはり立て看板には〈のっぺらぼう〉とある。
 いたずらだろうか。それとも冗談企画のようなものか。気になった。
 いけないとは重々承知だ。空になった缶をてまえの柵に打ちつける。軽やかにコォォオオンと鳴った。毛むくじゃらの背はぴくりともしない。規則正しくしずかな呼吸をつづけている。背後のベンチをうかがう。酔っ払いもおなじ姿勢でうなだれたままだ。もっとおおきく音を立てればこちらをふりかえるかもしれない。大胆にいこう。わたしは柵になんども缶を打ちつける。コォォオオンカァンガァンガンガンガンガンッガンッガッガッッ!
「うっさい」
 嗜める声がうなじにあたった。どうやら酔っ払いを起こしてしまったらしい。さすがにきまずい。わたしはあいまいな苦笑を浮かべてふりかえった。
 のっぺりとした顔があった。干涸らびたゆで卵に、そこだけ切りとって貼りつけたような人間の唇がついている。雨滴がぽたぽたと顎から垂れていた。ほかにはなにもなかった。「なにわろとんねん」やけにあかい唇をゆがませて、それはすごんだ。
 わたしがあやまると、それは伸ばしていた首を檻の向こうの岩陰にたたんでいった。