応募作145

「にゅるん」

矢口 慧

 

 地下鉄は苦手だ。
 たまに大阪に出ると、頼らざるを得ない交通機関だが、路線図を確認しても、正しい車両に乗っているか、全く自信がない。
 景色を頼りに現在地を確認することも出来ず、自分が何処に向かっているか、運ばれているか解らない。複雑な路線は地方民泣かせ、重ねて自分は方向音痴だ。
 間違えて逆方向に乗ってしまった場合、すぐに降りれるよう、乗降口近くを陣取ることにしている。
 その日も、長椅子脇のバーに捕まり、降車駅を見逃さないよう、携帯を見る振りで、窓の外に視線をやっていた。
 真っ暗な地下に硝子は鏡のように車内を映して、まばらな乗客の姿が見える。
 正面の自動ドアには、自分の反対側に立つ男の姿が映っていた。
 手元のスマホがちかちかと放つ光に、顔色が変わって見える程に白い顔色をしている。
 そして後ろの扉にべったりを背をつけて、体重を預けてしまっている。
 扉が開けば服が巻き込まれるか、支えを失ってホームに倒れ込むだろう。
 ドアの開く向きを、報せる車内放送が、男が凭れたドアであるのを聞きながら、本人も解ってるだろうと、意地の悪い気持ちに声をかける気がしない。
 程なく日本橋に到着し、打って変わった明い駅に、ゆっくりと止まる。
 空気の抜ける音がして、自動ドアが左右に開くと、男の体がにゅるんと扉の隙間に吸い込まれた。
 驚きのあまり声もでないが、ホームに視線を走らせれば、男は相変わらずにスマホに視線を落としたまま、猫背に背中を丸めて何事もなかったように歩いていく。
 地下鉄は、苦手だ。一緒に何が乗っているかも、わからない。
 もう、地下鉄には乗らない。