応募作37

「澱みの下の白き身は」

玉川 数

 雪置く髪に白肌の、衣も同じく染め色の無しに、巷に寒風も吹き荒べば、また凝る暑さの日にも柔和な笑みに顔をつくり、ひとのただ行きただ来るを見守り、そこに在るを常とした。
 あれは神無き月の中ごろのこと、久方ぶりと世を沸かす花形、立役者、時のひとと持て囃されたその姿に、おまえはよう似ているのだと、それはお人違いながらも、置屋の止める声も掻き消す歓声に、担ぎ上げられ称えられ、満更でもない心持になったのもつかの間、ほいと投げるように捨てらるる身の哀しさよ。あな口惜しや。口惜しや。深みに沈み惑うこの身を顧みることもなく、ひとは祭りの間を笑い過ごし、やがては忘れるあさましさ。
やさしげに振る舞うものこそその情のほどに恨みは深し、澱みのよう。笑みを絶やさずあるとても外面菩薩内面夜叉よ。長きに見守って在った輩は、その心知らず、端より無きことのように思い返しもせず、日々を笑い合い間抜け面さらして生きているものを。エエ悔しや口惜しや。
この恨み、晴らさずにおかぬと念じ、深みより澱む気を送り続けしが、三とせが後にやっと、禍あるはあれかと『岩根し枕ける 我をかも』など準えて言うも、許さじや。今更探すも声など立てず。
 されどされど。
季節になれば颯爽と、流れる歌は、忘られず。高揚する声がやがて、はかなくも落胆に変わるは、次第に時逝くにつれ、喜びから、澱みの中にも澄んだ悲しみに変わるや。
行き行き過ぎて、十七年目、この身灰色に朽ちつつも、凝る恨みもほどけて解けて、嗚呼喜びの歌を静かに聞く。
 其は三月弥生のこと。もう元なる無垢白は残らぬ身を、澱みから引き上げるものあり。水に濯ぎて、手を合わせ、住吉に詣で、催事の壇に配し言う。お帰りと。そして善き位に在れと大き社に祀らる。
 流転の我をひとはカーネノレと呼ぶ。
クリスマスには、クリぼっちでも鳥を食え。セットで買うとお得である。