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個人賞:牧野修賞

作品タイトル:「ちいさないし」
筆名:久遠了

 

昔は男にも名前があった。故郷を捨て、悪逆非道の日々を送った今では、その名で呼ばれることはなかった。余命わずかと知った時、男は故郷に帰った。様変わりした街に、痩せ衰えた男はため息をついた。夕暮れ間近の公園に入ると、ベンチに腰を下ろした。ワイシャツをまくり、バッグから取り出した注射器を腹に刺した。腹と背の鈍痛が遠のいた。ぼんやりしていると、目の端に何か動いているモノが見え、甲高い声が聞こえた。

「どうしょう、どうしょう、やれ困った」  古めかしい衣装をまとった小さなモノがいた。男は思わず問いかけた。 「何を困っている?」小さなモノが男を仰ぎ見た。 「オカやんかい。病人を見舞うたはいいが、うちを忘れてしもうた」名前を言われ、男は驚愕した。 「俺を知っているのか!」「忘れたか。チビのおまえのはしかを治したやないか」小さなモノがにんまりと笑った。男は右手を差し出した。「あんたの住まいに心当たりがある」 「やれ助かったわい」小さなモノが飛び跳ねて、男の手のひらに乘った。

記憶を頼りに、男は少彦名神社に向かった。石造りの鳥居をくぐり、ご神木の根に腰を下ろして、小さなモノに声をかけた。「ここじゃないのか」「そうや、ここや」小さなモノは手のひらから飛び降りた。「礼や。オカやん、腹ン中に大きな腫れ物があるな。肺もいかん。

これを飲め」小さなモノが何かを手のひらに置いた。それは見る間に豆粒ほどの丸薬になった。 「楽になるわい」男は手のひらの丸薬を眺めた。「俺にくれるのか。悪魔、鬼と呼ばれた俺に」小さなモノがカラカラと笑った。「イタズラ好きのオカやんや。仕方ないやろ」小さなモノは境内を舞うように走り、社殿の中に消えた。男は泣きながら丸薬を飲んだ。

翌日の朝、ご神木に寄りかかって、男が笑顔で死んでいた。司法解剖された男の胃の中には、白くて丸い、小さな石が入っていた。