応募作164

「柿の木に」

生古麻六万寺

 

岩湧山は河内の国、大阪と和歌山との境に近い、山頂の茅場の有名な山でありますが。
年の暮れも近づいた冬の日。私はその山にほど近い、天見の駅を降りました。
山道をしばらく進むと、むき出しになっていた岩肌に、雨に降られたのだろう、夏用と思われる薄い生地のスーツジャケットが、濡れてぴったり張り付いていました。
こんな山の中にスーツで来て、しかもそれを脱ぎ捨てていくなど、奇特な人がいたものだと思ったのですが、次の瞬間には乾いた笑いに変わりました。
私自身もまた、スーツ姿のまま、山を歩いていたからです。
お恥ずかしながら、私はその日。
度重なる長時間労働にまいって職場に行かぬ電車に飛び乗った挙げ句、ぎりぎり大阪には留まったという結果が、天見駅での下車だったのです。
自分の他にも、仕事に嫌気がさして山まで来た人がいると思えば愉快ですらありましたが、その気分は、すぐに落とされてしまいました。
針葉樹のまっすぐ伸び並ぶ中に、一本だけくねりと枝を広げた柿の木。
その枝に、輪になったロープが括り付けられていたからです。
自殺か、見えぬ藪の向こうに、もしや死体がと足がすくみましたが、あったのは夏服。
だとしても、冬までには誰か見つけているはずだと心を落ち着けますと、背中にびしゃりと衝撃をうけました。
冷たい水しぶきが首筋にかかりました。
足元には先ほど落ちていたスーツ。これを投げつけられたのだと思いましたが、あたりを見渡しても誰もいない。
なのに、ぱきり、ばきりと枝を踏み折るような音が私を取りむように鳴るのです。
怖くなってもう帰ろうとしたのですが、足を踏み出した瞬間、ぐっと後ろへ引っ張られて思いきり尻餅をついてしまいました。
肩から提げた鞄に、真っ白な、蛇のようにぐにゃりと伸びた腕が、藪の中から掴み掛かっていたんです。
鞄を肩から外して、慌てて逃げ帰りました。
生きたものとは思えない、ぶよぶよとして、血の気のない腕でした。