応募作129

「譲渡」

羽田伊織

 

 海遊館に近い街は海風が強く、十一月の終わりは酷く寒かった。ビュウと吹き抜ける一陣の風に窓ガラスは不吉な音を立てる。
「もうちょっと待ってくれ」
 手元の作品をルーペで確認する。半球体の目の覚めるような透明なレジンの中に、赤い金魚と水草が流れるように形を保っている。生きて泳いでいるかのようだ。私は納得して目を離した。
「さてと。これが最後かな」
 目を細め、呼吸を止めてから右人差し指を心臓に刺し入れた。肉の抵抗もなく、ごく自然のことだというように指は心の臓に触れ、必要なぶんだけを指先に残して体内から出ていく。皮膚に何の傷跡も残さずに。指先にある小豆の粒より小さな球体は淡くぼんやりとした光を淡く、濃くし仄白い瞬きを繰り返している。それをレジンの表面を一周するように撫ぜていく。するとポコリと水底から浮かび上がる気泡となり作品の中へ収まる。気泡は水中を表すように、ひとつの世界に命を持たせた。
「綾香さん、だったかな。目に映る景色が綺麗だとええな」
 作業棚にある未発送の一番手前にある、いや一通しか残されていない手紙を手に取った。便箋の末尾にある文字を読む。
『私は広がる蒼穹を見てみたい』
 自分の心に後悔がないことを確認してカットされたアクリルのケースに指輪を入れた。黒いクッションの上に命の河底が踊っている。クッション素材を詰めて梱包し、送り先の住所を書いた。明日の午前中に発送すれば明後日の午後には届く。
 ――それが私の寿命が尽きるときだ。
 遺体を発見するだろう市の介護ヘルパーさんには申し訳ないが、部屋の整理は終えているし、遺言書もある。作業道具をまとめて枕元に置いた。これは私とともに燃え、私とともに逝かなければならない。私の後悔のためにあった道具を残してはおけない。命を削る意志を持つ道具たちだからだ。私の命の最後の一滴が相手に届いたとき生は譲り渡される。何の変哲もないグラスにビールを注ぎ、煙草を一本吸った。