応募作126

「牲(いけにえ)」

榛原 正樹

 

 その昔、天然痘は痘瘡と呼ばれ恐れられた。 
 医師、緒方洪庵は大阪の道修町に治療所を開き、庶民に痘瘡予防の種痘を呼びかけたが、世間の偏見は根強かった。
 ある日、そこへひとりの男が訪ねてきた。
「ごめんくださいまし。痘瘡治療の緒方洪庵先生はこちらでしょうか」
「いかにも、私が洪庵だが」
 男の老けたあばた面を見遣りながら洪庵はそう答えた。途端に男は目を輝かせた。
「そうでございますか。実は私どもの娘が病を患っておりまして、どうにか先生に治していただけないかと、遠方より参じました」
 男の背後には、地味な縞木綿の小袖姿に、痘瘡除けとおぼしき真っ赤なお高祖頭巾で顔まですっぽりと覆った娘が立っていた。
「御息女が痘瘡にかかられたのかな?」
「いえ、娘がまだ腹の中におります頃、私と女房が相次いで痘瘡にかかりまして。運良く二人とも命は助かりましたが、生まれてきた娘は体が片輪になっておりました」
 生まれつきの不具は病ではない。洪庵が困惑していると男は続けた。
「村の者から聞きました。先生のお薬は痘瘡にかかった牛から出来ており、人の体に使ったりすればきっと牛になるに違いないと」
 牛痘に対する迷信である。またかと洪庵はうんざりしたが、男の次の一言に驚いた。
「ならば逆に、牛になった者の体に与えれば人になるのではないかと思いまして……」
 そう言うと男はおもむろに手を伸ばし、娘が被っている赤い頭巾を脱がせた。
 大きな牛の頭が現れた。茶色の毛に覆われた顔面の、両端にあるヤニだらけの目がじっと洪庵を見つめていた。口からはよだれが垂れ、家畜の臭いがプンと室内に流れ出した。
「お願いします! どうか、先生のお薬を娘に試してやっていただけないでしょうか」
「……いや、牛に牛を掛けても人にはならぬ……」
 さすがの名医、緒方洪庵もさじを投げた。