応募作114

「彼のいる場所」

しんおかこう

 

 橋の欄干にもたれて川を眺めていた。しとしと降る雨で、前髪から不規則に雫が垂れて鼻先を打つ。
 この橋、題は忘れたが織田作之助が短編でみすぼらしいと書いていた橋。あの大江橋と比べてしまっては確かに華々しさはないだろう。そのうえ大江橋はしばらく前に重要文化財に指定されているのだから、勝ち目はない。
 惨めでみすぼらしい、陰気。それに浸りたくてこうして欄干で空想に耽る。

 もし、もし。
 背中に声をかけられて、振り返る。
 前にもこんなことがあった、薄汚れた男が哀れっぽく道を尋ねてきた。ずいぶん歩いてきたのに目的地に着かずここからどこそこへはあとどれだけかかりますかと。思わず財布から紙幣を出して、乗りものを使うよう言った。紙幣を握った男は小動物じみた目で、しかし唇は薄くにやけながら、姿を消した。
 そして今、声をかけてきた相手。あっ、君はこの間の――。
 後ろにいた小汚い男は足音高く逃げて行った。その方向から大型トラックが来た。

 前髪から垂れた雨水が、鼻を弾く。空想の終いを告げられたようでむっとした。
 惨めでみすぼらしい、陰気。それに浸りたくてこうして欄干で空想に耽る。
 彼よりはましだ、自分はあれほどみすぼらしくはない。そう言い聞かせるために。

 雀の涙ほどの給料のため、馬車馬のように働いた挙句、呆気なくトラックにぶつかって自分は死んだ。
 使い果たした生の無駄。それを慰める亡霊の空想くらい、訪れたこともない地の橋を、小説で知っていただけの橋の話を、空想するくらい許してくれていいだろうに。ここがどこだか知らないが、慰め終わったらいくべきところにいくとも。

 川に向き直り、再び欄干にもたれる。織田作之助の短編を頭の中でなぞろうとする。すると、ああ、今になって思い出した。あの短編の題は。
『馬地獄』。

 惨めさを笑う。目を細めた拍子に、目尻から雨水が一筋流れていった。