応募作104

阿倍野王子町あたり」

松岡永子

 

 路面電車を降りて路地に入る。
 ぼくはほんとうに方向音痴なのだけれど、あっさり安倍晴明神社に出る。稲荷社の鮮やかな朱が目に飛び込んでくる。記憶ではもっとくすんだ風景だった。清明産湯の井。前脚だけを地につけた、降り立ったばかりの霊狐飛来像。社殿に軽く手を合わせて、お賽銭は省略。
 神社脇の道を抜ける。通りを渡ったところに、梶井基次郎寓居跡があると聞いたのだ。
 けれども。歩いても歩いても見つからない。通りを間違えたのかもしれない。ぼくはほんとうに方向音痴なのだ。
 同じ形の街灯が等間隔に連なる。奥へ奥へと誘っているようだ。
 揃いの四角い看板が続く商店街には、懐かしげな店が並ぶ。水槽に白い塊が沈んでいる豆腐屋。店先の大きなガラス瓶いっぱいのおかきやあられ。あいだにぽつりぽつりと更地や建て売りっぽい住宅を挟みながら店舗が続く。少し離れた板塀の向こうには蔵の白壁が覗いている。
 たまごせんべいを焼く甘い匂いがする。記憶のとおり、店先に座ったおじさんが鉄板でおせんべを焼いている。これは絶対に行き過ぎた。通りを間違えたのかもしれない。ぼくはほんとうに方向音痴なのだ。
 来た方向へ引き返す。晩秋の日は暮れるのが早い。街灯に灯が点る。いかにも老舗の和菓子屋のショーウインドーには千代紙細工の大名行列。くだもの屋の籠盛りバナナが丸い光に照らされている。脇の路地への入り口では、門扉めいたアーチ型の看板に風呂屋の名が浮かんでいる。石畳の路地奥で暖簾が揺れているようだ。二人の子どもに両手を引っぱられているお父さんらしい人はコンビニ袋にビールを入れている。
 アーケードのある商店街に行き当たる。大売り出しの黄色い幟がずっと奥へと続いている。
 通りの向こう、並んだ提灯に灯が入り、薄闇の中にぽうっと浮かぶ。あれは神社だ。
 ちんちん、と電車の音がする。
 来た道はどれだろう。ぼくはほんとうに方向音痴なのだ。