応募作87

「池に映る」

久遠了

 

 春には見事な桜で賑わう「いわたちばな公園」は、閑静な住宅街にあった。遊歩道に囲まれた大きな池があり、場所に不似いな「地獄池」の名で呼ばれていた。
「古来から地獄と呼ばれる土地は、温泉や炭酸を含む水が湧いていることが多かったようですね」
 私の話を聞いていた古老がうなずいた。
「さいですや。ガスを出す湧き水で鳥や虫が死ぬ。地獄の由縁やね」
 いろいろな話のあとに、古老は思い出したように言った
十五夜の晩に地獄池には行ってはいけんと。特に神於山が正面に見える場所に立ってはいけん」
「なぜです?」
 私の声に古老は謎めいた笑みを浮かべた。
「さて…… あれも地獄かもしれしまへんや」
 それが何かを古老は語らなかった。
 私は十五夜を地獄池で迎えることにした。不遜な行いを詫びるため、神於山神社の参拝を早々と済ませた。
 十五夜の夜。公園には人影はなく、虫の音だけが聴こえた。
 天空の光に、気がつくと私は地獄池の上空を凝視していた。
 そこには、煌々と照る月を背にした荘厳な社があった。白い薄衣を着た無数の何かが、社の前に立つ朱の鳥居に向かっていく。鳥居を抜けたものは輝きを増してから、社の中に消えていった。
 ふと地獄池の水面に目をやった。
 その光景が、私の魂を凍らせた。
 水底に小さな社が見えた。鳥居はなく、ただ天空の社が映っているわけではなかった。美しい社ではあったが、それは見かけに過ぎず、書割のような空虚さを感じさせた。
 灰色や黒い衣の薄汚い何かが、社に向かって昏い水の中を堕ちていく。たぶん永遠にたどり着くことはない。社までの間には茫漠とした空間があるだけだ。
『ああ、これもまた地獄なのかもしれない』
 私が悲嘆にくれていると、遠間から近づいてきた雲が月を隠した。
 いつもの風景が戻った。
 再び目を移すと、地獄池の水面には風で生じた波紋がただ流れているだけだった。