応募作68
「無題」
白瀬青
あかんぼうが鳴き止まん。 幽霊やから気温は感じんけど、部屋の気温計は一番上まで振り切れとるし。 視界の端に黒い影が流れていく。耳にずっと、羽音がある。そりゃあわたしは幽霊や。噛まれも触れもせんのはわかっとるけど、そんでもやっぱり、部屋におる虫は気持ち悪い。しかもなんか尋常やない。 この子どんくらいお乳飲んでへんのやろ。ポルターガイストくらいはできるけど、部屋中振り回したって食べれるもんは出てこない。 わたしは、この子のお母さんやない。この部屋の住人でもない。わたしは――。 不意に、聞いたことのある声がした。 「……そうかもう……、新しい人も入るわなぁ……」 わたしは。 わたしは、もうここの住人やない。一個前に、ここに住んどった女の子やった。わたしの勤めていた会社はおうちと職場の他にどこへも行けへんから、オフィス歩けばみんなカップルで、わたしも例に漏れず、とっくにきれいな奥さんのおる上司のおじさんとおつきあいしとった。ある日給与明細と医療明細とあなたの写真を見比べていたら笑えてしまって、そのままベランダから飛び出してしまったの。 おじさんは、毎年わたしの命日にわたしの部屋を訪れる。わたしの部屋は事故物件だから、ずっと新しい人は入らんかった。 迷惑やったんと思うで? あなた、毎年毎年お花を供えてくやろ。郵便受けからしなびれた花束が出てくるたび、掃除する大家さん、めっちゃ気味悪そうな顔しとったわ。 郵便受けの蓋が一度だけ動いて、少しためらうような間があって、今年は花束は見えなかった。待って。足音が遠ざかる。待って。 助けて! 声がなくても張り叫んだ。力の限りに張り叫んだ。 助けて! 助けて! わたしの部屋で、おじさんがぼんやりとテレビを見ている。何ヶ月も昔の新聞がずっと置かれている。 「ネグレクトの乳児奇跡的に救出」 叶えたくなかった夢やのに、こういうのを呪いって言うんやろね。