応募作56

「早めに」

君島慧是

 「またのご来館を心より」――ペンギンは水のなかを飛ぶ。はじめて来たときもしばらくペンギンのまえで動けなくなったっけ。海遊館に飛びこんだのは閉館四十五分前、先ほどから退出を促すアナウンスが聴こえていた。
 気分転換のつもりだった。仕事で新しいプロジェクトが控えている。その武者震いを、なんというか、冷ましたかったわけだ。
 太平洋がテーマの巨大水槽を中心にした螺旋形の歩廊、そのまわりを北極圏から熱帯雨林まで、地球上の様々な水域をテーマにした水槽が囲んでいる。この配置にはよその水族館では味わえない箱庭的立体感がある。なかでもジンベエザメのいる太平洋水槽は圧巻だ。これだけまとまった水量を観るのも、巨大建造物に似た作用がある。観ていたくて、離れたくなくて、悪いとは思いつつ水槽をめぐる斜路を歩きつづけた。螺旋形というのはどうも、登りきらないと気が済まない気にさせる。
 そうか、逆かもしれない。つまり気分転換などではない、気分の醸造
 水槽の水はうえに行くほど色が濃い。ジンベエザメを抱えていた水色は、いまやすっかり藍色だ。あの暢気な顔をしたサメもアジもエイも、いまはすっかり見えなくなった。入口では大勢の人とすれ違ったが、辺りにはまったくひと気がない。館内放送も聴こえない。だが斜路は登りつづける。中央水槽はつづく。
 水のなかに、七色に煌めく光のカケラが降っていた。魚の鱗だとおれは思った。白く細長い螺旋形のものも伸びていた。棒状のそれは巨大な魚か何かの骨を連想させる。早めに入ればよかったのだ。早めにくれば。きっと。
 白い棒のあいだを、光のカケラが舞い散る。その煌めきはやがて、背後に見える無数の星明かりと見分けがつかなくなる。螺旋形の白い棒は、古代神殿風の建築物の柱だった。
 水のなかに星明りが雪のように降る。斜路をゆく脚はとまらない。建物の屋根のうえに青紫の星雲、その横で銀河が渦を巻く。水槽のすぐむこうをラブカの碧色の眼が、横切る。