応募作43

「呼ぶ声」

文乃

「まゆみぃ~ まゆみぃ~」
かすかに聞こえる声を耳にした小学生の真由美は急に元気が出てきた。ベッドから飛び出し、母が帰ってきたのだと玄関に走った。
ドアを勢いよく開けたが、そこには母の姿はなく、代わりに暗闇の中から生ぬるい風に乗って、声が聞こえてきた。
「まゆみぃ~ ほぅ~ うらむぅ~」
真由美は耳をふさいだ。古い家に一人取り残され、心細くなった気持ちがそうさせているのだと自分に言い聞かせた。
大きくなっていくその声に背筋が凍った真由美は、二階にある自分の部屋に戻ろうとした。そのとき、玄関扉を叩く音がした。
「石原さん? 石原さん? ちょっと、だれか、いてへんの?」
おそるおそる開けると、真由美の目の前に大きく口を開けた虎の顔が迫ってきた。
「あんた、真由美ちゃんやったな。洗濯物干しっぱなしやろ。雨降ってきたで」
動揺している真由美に話しかけてきた、おばさんは隣人の田中さんだった。ヒョウ柄のパンツに、トラの顔が刺繍《ししゅう》された派手なシャツを着て、さらには髪を紫色に染めていた。
数日が経ち、あの声の正体がなんだったのか、ようやく気がついた。
真由美の家族は大阪へ転勤になり、この家に引越してきたばかりだったので、阪神ファンの姿というものを知らなかった。
「真弓、真弓、ホームラン!」
テレビ中継で阪神を応援する田中さんが大声で真弓選手を応援していたのだ。
田中さんの家を見ると、白い壁面に雨だれの黒い染みが縦に何本も流れていた。それはまさに阪神を象徴する縦縞《たてじま》だった。しかもその模様は、他の家々にも見ることができた。
「まゆみぃ~ まゆみぃ~」
真由美は震えた。夏になるとその声は輪唱《りんしょう》となって幾重にも重なり、勝利への執念に形を変えて、町中に響き渡った。