応募作38

「譲ってください」

青山藍明

京セラドーム前で女が立っている。
右手に画用紙を持ち、顔を半分隠しながら、横切る人々をじろじろ見ている。
画用紙には「譲ってください」の文字が赤いマジックで書かれていた。ところどころ、文字が掠れていた。
コンサートが行われる日には、必ず立っているそうだ。
去年、私も初めて某アイドルグループのコンサートへ行った。友人に誘われ、とても楽しみにしていた。
やはり、女が立っていた。背が高く、長い赤毛をたらし、黒目をぎょろぎょろさせながら、音がしそうに長いまつげを上下させ、瞬きを繰り返していた。派手なワンピースの裾が、風になびいていた。
「ねえ、あの人って」
友人に訊こうとしたら、「行こう」と腕を引っ張られた。
受付を済ませ、席について友人はようやく、口を開いた。
「あいつが譲ってほしいのは、チケットじゃないの。もうすぐ始まるよ。楽しもう」
歓声が響き、舞台が明るくなる。譲ってほしいものがわからないまま、コンサートに集中した。帰り道、女の姿はなかった。
「去年は、小柄な黒髪の少女だったよ」
友人が、ぼそりと呟いた。