応募作1

﹁到彼岸﹂
赤い尻
 なんばを出発すると電車は湾に沿って南下するが、臨海工業地帯の複雑怪奇なプラント群や首長竜を連想させる巨大な港湾設備に阻まれて、車窓から海を拝むことはできない。
 悲願叶って授かった息子はようやく乗降扉の縦長なガラス窓に背が届くようになったが、まだ私が手を引いてやらないと電車に乗れない。爪先立ちで窓にかじりつく息子が、電車の横揺れに転ばないよう軽く支えていてやらないといけない。息子はいつも山側より海側の景色を好んでいるが、かなたに海があるとは知らない。教えてやろうか、などと思いつつ彼の柔らかなつむじを見下ろしていると、
「たこ」
 息子が窓の外を指差す。
「たこ、いっぱいや」
「蛸なんかおるか?」
 絵看板でもあったろうか。息子の指先を見遣ると、凧が無数に揚がっていた。
 住宅街が港湾倉庫街に変わろうとするあたりの上空に、大きさも形も様々な和凧が群れを成して高々と泳いでいる。カラフルで祝祭的な雰囲気だ。
 父と子でぽかんと凧を眺めていると、背後から「ついたよ」と声を掛けられた。はっと我に返るが、後ろには誰もいない。電車は快調に走行中で、妻の墓がある目的の駅はまだしばらく先だ。
 向き直ると、空いっぱいの凧はいつのまにか皆消え失せていた。呆気ないものだ。息子は驚くでも落胆するでもなく、海側の景色を眺めているが、車窓から海は拝めず彼はかなたに海があるとはいまだ知らない。