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受賞作:佳作

作品タイトル「渡し船」 
筆名:松岡永子

 

 ランチのとき、祖母の家には渡し船に乗って行ったと話すと、へえ、すごい田舎なんですね、と言われた。まあ知らなくても無理はないが、大阪市内にも渡船場はある。
 祖母の家は大正区のやや南の方にあった。地図上では我が家からすぐなのだが、間の川に橋がない。電車やバスを使うとなるとぐるっと遠回りしなくてはならない。小学生だった私は、まだ補助輪の取れていない自転車で出かけた。渡し船は自転車も乗せてくれる。船着場で待つ時間ばかりが長く、動き出せばあっという間だった。
 橋がないのは不便だろう、と父が尋ねた。
――いやあ、別に。バスの本数も多いから困らんし、それに…
 ふと真顔になって祖母はつぶやいた。
――橋なんかできたらあれが渡ってきてしまう。
――おばあちゃん、あれって、
 なあに、と尋ねようとした私の言葉は遮られた。
――しっ。名前を呼んだら来てしまうよ。
 その祖母も数年前になくなり、それから渡し船には乗ったことがない。実家も出て、今は職場まで歩いていける街中のマンション住まい。狭いが寝に帰るだけだから問題ない。
 今日も残業で夜更けて帰る。昼間はにぎやかな場所だが、日付が変わる頃にはさすがに人通りがない。
 この辺ではすべてが暗渠になった。むかし川だったという道路には、石の欄干だけが残っている。私の家はこの向こうだ。名ばかりの橋を渡る前に、祖母の癖を真似ることにする。
 私は振 り向き、深々と頭を下げる。
「お見送りありがとうございました。ここまでで結構でございます」
 しばらくためらってから踵を返すあの気配がする。