応募作174

「汝の夢、己の心」

鶺鴒

 

日がとっぷり暮れた。私は身体も動かせず、声も出せず、ただ丘に立ち尽くしている。霧雨が降り始め、煙のようなものがかかった視界がぼんやりする。後ろから若い男の囁きが聞こえた。
「僕の心に君は生き生きしている、僕に注ぐ愛の全部君に捧げる。どうか僕と一緒に愛の虹を渡って欲しい。」
この声を聞くと思いの断片が頭の中で渦巻き、胸の奥ではひそかな不安や焦燥を紛らそうとした。私と言葉を交わしたことがない彼は、いつも大阪の靭公園で不快げに眉をひそめてギターを弾いていた。その様子は大変可哀そうに見えた。私は、一目で人を好きになってしまう女ではない、ただ彼がその弦を弾くたび、胸が高鳴る。彼は、今誰かに告白しているのだろう。暫くすると、絶え間のない雨音を縫って朦朧とおり細げに自分と似てるようにも思える女の声が聞こえてきた。
「私もあなたを愛している、心から愛している。」
 霧雨が降り続き、私の眼からぽろぽろ落ちたのは涙なのか、雨なのか、よくわからなかった。赤い血潮は温度を削り取られたように肌寒くなった。これまで味わった事がない凄愴の思いに襲われ、息も出来なくなった瞬間、日輪が登りかけ、目も覚めた。
遠い星の瞬きのような悲しげに震える夢であった。でも、夢の残響がまだ薄っすらと鼓膜に残り、両肩と胸が激しく波打って慟哭した。私は現実に掴むことを決めた。涙を拭ってベッドから降り、家を出て会いに行った。それから青く澄んでいる空を仰いだ刹那、彼の胸に飛び込み、
「あなたは私の心に奪われた罪がある」と私は甘く囁いた。
私は愛の炎の眼差しで彼を凝視し、彼の清冽な視線がふと重なり合った。私は彼の透き通るほどの瞳の中に、後ろ向きの銅像が見えた。全身鳥肌の立つ思いで愕然として振り返ると、空は光と影にくっきりと塗り分けられ、生き生きしてくっすと笑っている私の姿が鮮やかに浮かんでいた。夢の中で銅像がちっとも動かなかった。はっと目が覚めた。

応募作173

「あめざいく」

春南 灯

 

朋子が、大阪で一人暮らしを始めて間もない頃に体験した話。
昭和三十年に建てられた古アパートは、隣室の生活音がよく聞こえる。おかげで孤独を感じることはないが、難点がひとつ。夜な夜な、隣人の大胆な嬌声が聞こえてくるのだ。
ーーあぁ、今日も始まった。
古びたドアノブを捻り外へ出る。月明かりに誘われ、あてもなく歩いていると誇らしげに花を咲かせた桜並木が現れた。
あまりの美しさに感嘆の声が漏れる。
佇んでいると、どこからともなく祭囃子が聞こえてきた。目を凝らすと、ぼんやり照らされた鳥居、参道の両脇に並ぶ露店、行き交う沢山の人が見える。
なんとなく灯を目指し、暗褐色の鳥居をくぐった。
肩がぶつかるほどの賑わいに驚いていると、少し先の露店に並べられた飴細工が目に留まった。
人をかきわけ、店先に辿り着く。
職人と思しき紺色の作務衣を着た爺が、温かい飴を操って何かを生み出そうとしている。棒に刺された塊は鳥の素になり、素早く鋏が入れられ、羽を得ると目前に羽ばたいてきた。
「やるよ」
爺は、きょとんとしている朋子に飴の棒を握らせると、道具を片付け始めた。
手元を見ると、繊細な飴細工の鶴が羽を広げている。
「今、手持ちがないので、ちょっと待っていてください!」
朋子は、踵を返し家へと走った。
随分歩いたような気がしていたが、僅か五分ほどの距離。
自室のドアを開け、台所のコップに鶴を挿すと、財布片手に桜並木を目指した。
だが、走れども走れども、目印の桜が無い。
見落としたのかと何度も往来したが、とうとう桜を見付けることはできなかった。肩を落とし部屋へ戻ると、台所の蛍光灯の下で、虹色に輝く鶴が羽を広げていた。

翌朝、近所の交番を訪ね、神社の場所を訊いたが、周辺に神社はおろか桜並木も無いと言われた。
そこに住んでいた四年の間、暇さえあれば辺りを探し歩いたが、ついに見付ける事はできなかったそうだ。

応募作172

「汝の夢、己の心」

鶺鴒

 

日がとっぷり暮れた。私は身体も動かせず、声も出せず、ただ丘に立ち尽くしている。霧雨が降り始め、煙のようなものがかかった視界がぼんやりする。後ろから若い男の囁きが聞こえた。
「僕の心に君は生き生きしている、僕に注ぐ愛の全部君に捧げる。どうか僕と一緒に愛の虹を渡って欲しい。」
 この声を聞くと思いの断片が頭の中で渦巻き、胸の奥ではひそかな不安や焦燥を紛らそうとした。私と言葉を交わしたことがない彼は、いつも大阪の靭公園で不快げに眉をひそめてギターを弾いていた。その様子は大変可哀そうに見えた。私は、一目で人を好きになってしまう女ではない、ただ彼がその弦を弾くたび、胸が高鳴る。彼は、今誰かに告白しているのだろう。暫くすると、絶え間のない雨音を縫って朦朧とおり細げに自分と似てるようにも思える女の声が聞こえてきた。
「私もあなたを愛している、心から愛している。」
 霧雨が降り続き、私の眼からぽろぽろ落ちたのは涙なのか、雨なのか、よくわからなかった。赤い血潮は温度を削り取られたように肌寒くなった。これまで味わった事がない凄愴の思いに襲われ、息も出来なくなった瞬間、日輪が登りかけ、目も覚めた。
遠い星の瞬きのような悲しげに震える夢であった。でも、夢の残響がまだ薄っすらと鼓膜に残り、両肩と胸が激しく波打って慟哭した。私は現実に掴むことを決めた。涙を拭ってベッドから降り、家を出て会いに行った。それから青く澄んでいる空を仰いだ刹那、彼の胸に飛び込み、
「あなたは私の心に奪われた罪がある。」と私は甘く囁いた。
私は愛の炎の眼差しで彼を凝視し、彼の清冽な視線がふと重なり合った。私は彼の透き通るほどの瞳の中に、後ろ向きの銅像が見えた。全身鳥肌の立つ思いで愕然として振り返ると、空は光と影にくっきりと塗り分けられ、生き生きしてくっすと笑っている私の姿が鮮やかに浮かんでいた。夢の中で銅像はちっとも動かなかった。ふと目が覚めた

応募作171

「Y県某村居酒屋にて」

田口六

 

 おめオレが人殺したの聞きたいってか。かだっけどなんぞ面白いもんでねぞ。
 オレがぬずさんのとき、なかばのよっちゃに誘われて冬だけ大阪にかしぐさいくことになってよ。
 工事のスゴトだけんど、とくと言葉がわからねえの。今じゃテレビでさはなしっこしてるの多いからこっちでもわかっけどさ。したっけなぬかだってんのやわがんねんだ。しでいに現場のほいづらがさオラを無視するようになってよ。やるのはよただ黙々やるだけでいいけんど、変わっとわかんねえんだ。んで、しとりのあんちゃんがいげすかねくてよ。向こうの言葉でおっけ声でごしゃぐんだ。なしておがしぃこだねえのにみんなすて笑うんだな。なんだおもしゃくねえ。けったくそわるくてよ。
 スゴトあがったあとよ、ほいづがしとりになったらふん捕まえて、なぬさこのと、つさや腹いろんなところをはだいだ。すばらくするとがおったや。そいでさっぱどした。
 そいでしんまに基礎さこしらえるためにコンクリさながした穴さあってよ、そのながさなげてまた流してすめた。いますこすコンクリあってもバレねえからさ。もすこすであがっときに起きてしずねかったっけどきまったさ。
 あすなさほいづがいねけどなじょすたーなじょすたーとほげったけど、すばらくすっとすずかになって、オレはほっかぶりできまるまでかしぐさいっだよ。そっから大阪にいってねんだ。
 おい、おめ、聞いてんのか。おめが聞くからかだったのによう、なんも言わずに黙ってあっぺとっぺなことしてよう。おだずなよ

応募作170

中之島城」

君島慧是

 

 少女は夜のなか、洟をすすりあげながら、そこにいる自分がちょっと誇らしい。
 太い柱と、柱のうえの平たい三角形、みな白い石でできている。建物の正面をファサードと呼ぶことを知るにはまだ幼かった。
 おばあちゃんは、くうしゅうにも焼け残った、すごいすごいって言ってた。わたしもそう思うよ、お城、おばあちゃん。
 堺の家からひとりで来てやった。ひとりで電車に乗ってやった。家出してやった。みんな大キライ。中之島きている、夜に。ひとりで。すごいわたし。本当はずっとここに住みたいと思っていた。連れてきてもらうと、お姫様の住むところみたいって思ってた。誰にも言ったことないけれど。クラスの男子なんか、似合わねーって、絶対ぜったい笑うもの。
 矛先を変えた怒りが、またぶりかえす。一度消えたはずの涙が、またぽろぽろ落ちる。
 気強いもん、ケンカ強いもん。でも。
 じゃりン子なんとかって言われたり、エヌエチケーのチコちゃんみたいって言われても、こういうの見たいときあるんだもん!
 お姫様みたいに、なりたいんだもん。
 少女は太い柱の一本に寄りかかり座っている。柱は頼もしい。冷たさもいやじゃない。木枯らしが石の柱のあいだと階段の縁を走る。お腹空いたなと思った。だが平気だった。
 風の冷たさは、少女には、自分がここに相応しい人間か試すように思われた。石の冷たさも同様だ。夢の叶うスピードの、速さ増す気がして、息の白ささえ頼もしく。泣き疲れて、やがて微睡みのなか、くりかえす。
 あのお城なんだもの。なかにはあのきれいな天井があって、ドレスを着ておりるのにぴったりの階段があって。沢山ご本があって。
 頬を落ちた涙は川風に乗って泡になる。扉をおす。扉が開く。
 夜の図書館は新しい物語を用意している。
 まだもう少し。起こさないでね。お母ちゃんのお好み好きでも、お姫様になれるかな。

応募作169

「見上げる」

国東

 

 想像してみて欲しいんだけど、風通しのいい玄関ホールに、天井から二頭の大きな鯨の骨が吊されている。彼らは種類の違う鯨で、生きていた場所も年代もまったく違う、地球上では出会ったことがない種だ。いや、実際はもう少しいろいろ複雑なんだが、今は聞いて欲しい。いいね?
 骨になって、こうして組み立てられて、天井からワイヤーで(がっしりと、一つ一つの骨を丁寧に、天から大きな指でつまむように)吊されて、はじめてお互いのことを知るようになった。互いの曲線や重さが驚くほど違うこと、光が当たった時の白さのこと、脚の長さ、時々カラスが運試しに、肋骨の中をひゅうっと飛んで行くときの、その場所場所の難易度。最初にカラスの死骸が山になったとき、これは絶対に事件だと、ぼくらは警戒したものだけれど。だがそれはまた別の話。鯨たちは共通の言葉を持たないけれど、お互いのことをよく知り、また知っていると、伝えようとし続けている。わからないけれど、わかるんだ。そう、見果てぬ夢ごとの展示なのさ。
 さあてこれから夏はレジャーの季節だ。親子連れが骨の下を通り抜ける。ねえパパ、あれはなあに? そういって小さな指が天井を指さして、初めて骨に気づく人もいる。ああ、あれはね、といって目を細めて、展示パネルを自分の言葉みたいに読み上げるんだ。知らない世界のことを、知っているみたいに。
 彼らは不思議なことに同じ時間だけ、鯨の骨を見上げて、はっと自分に残された時間を知ったみたいに、ホールの中に入っていく。
 どうだい? 想像できたかい? ぼくはきみの、きみたちの知っているふうに話せたろうか? 今のきみたちがどんなによい具合につままれているか、愛されているのか、知ることができればと思うよ。きみたちが今、なんと言おうとしているかは、残念ながら理解できない。

応募作168

「路地」

瀧村智日

 

ジングルベルが流れ、そこここにクリスマスツリーが飾り立てられている。今年もそんな季節になったか。俺はぼんやりと人混みを眺めやった。
出張で久しぶりに訪れた心斎橋筋商店街は俺の記憶と随分違っていた。アーケードを埋め尽くす人の波の半数以上は外国人だろう。ひときわ大きく聞こえてくるのは中国語か。昔はこんな風ではなかった。俺がこの界隈で遊んでいた頃はバブルの真っ只中。肩パッドの入ったダブルのスーツに身を包んだ男たちと、ボディコンと呼ばれたファッションで着飾った女たちが商店街を闊歩していた。深夜にもかかわらず花屋がワゴンで営業し、男たちはそこで買った花束を女たちにプレゼントしていた。そうだ、人混みの主役は俺たちだったのだ。いつの間に大阪はこんな外国人の街になってしまったのか。やり場のない怒りが浮かぶ。頭が痛い。酒と人混みに酔ったのか、アーケードの照明さえ目に刺さる。俺は人混みを避けて店と店の間にみつけた一筋の闇に転がり込んだ。ひと一人がやっと通れるような細い路地は湿った空気と暗闇で満たされていた。この方向だと御堂筋に抜けられるはずだが、それと思われる灯りは随分遠くに見える。俺は路地をよろよろと歩きだした。酔っ払いが吐いていった反吐を踏みつけて危うく足を取られそうになる。ふと前を見ると路地に入って来る人影が見えた。広い肩をゆっくり揺らしながら歩いてくる。くそ、こっちが先だ、遠慮しろ。怒りで膨張した血液が視界を赤くする。歩く速度を上げる。距離がぐんぐんと縮まる。避ける気はないのか!
突然、辺りを眩い灯りが照らし出した。こんなところに人感センサー付きの照明が。男の顔が照明に浮かび上がる。それは――。見紛うべくもない、若い頃の俺自身だった。ニタニタと締まりのない笑顔を浮かべていた若い俺は、耳まで割けるほど大きく口を開いた。最後に俺が見たのは若い俺の紫色の舌だった。